蛙化現象にびっくりする

今日も何もしていない。
いや、正確に言えば「何もしないことをしていた」。
それは怠惰とは違う。もっと意識的で、構築的な“静止”だ。

朝、目覚めて時計を見ない。
世界のスケジュールと自分の存在を切り離す儀式だ。
ベッドの上で天井を見つめる。
そこには答えも目的もない。
ただ、天井がある。それだけだ。
だが、この「それだけ」が、案外尊い。

人は何かを成し遂げなければならないと、ずっと刷り込まれている。
勉強しろ、働け、夢を持て、努力しろ。
その結果、人類は確かに進歩した。
でも、幸福はどこへ行ったのだろう。
まるで全員で走る競争に夢中になって、ゴールが存在しないことを忘れているみたいだ。

だから私は、止まる。
動かないことを、選択する。
止まることでしか見えない景色がある。
風の音、遠くの車のエンジン音、壁を這う光。
世界は、静止して初めて豊かになる。

昼過ぎ、机の上の湯飲みを見る。
ぬるくなったお茶が、時間の経過を静かに証明している。
私が何もしなくても、世界は勝手に進む。
それで十分だ。
地球の自転に自分を重ねる必要はない。

人はよく、「何もしていないと不安になる」と言う。
だが私はその不安こそが、人間が“何かに依存している証拠”だと思う。
成果、評価、承認──それらを失うと、空っぽになる。
でも、空っぽのまま生きることも、案外悪くない。
なぜなら、空っぽの器にこそ、風が通るからだ。

夕方、ベランダに出る。
空が少しだけ赤く染まっている。
ああ、今日も何もしなかった。
それでも一日は過ぎた。
誰かに褒められることもないが、誰かに怒られることもない。
「無」には静かな平等がある。

夜。
布団に入り、目を閉じる。
今日を振り返る。
…いや、振り返らない。振り返るほどのことをしていない。
でも、それがいい。
何もしないというのは、世界と争わないということだ。

そして、何もしていない私を、世界がそっと許している。
その許しの中で眠る。
これが、私なりの美学だ。

何もしていないから今日はブログに書くことはないなぁと思ったので、何もしていないことをかっこよく書きました。書いている最中は意外にいい出来だなと満足していたのですが、プレビューで誤字と内容のチェックをしていたところ……なんだこのポエムは……いいかげんにしろ……恥ずかしいと評価が逆転しました。

自分の文章で蛙化現象が起きるんだなとまた一つ賢くなりました。



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